こちらのコラムは、国語力の低下が人間感情の低下(感情表現の低下)につながっている事、国語力を守るためにどうしていけばいいのか、という書籍のご案内か。
がるちゃんでは、「ごんぎつねが読めない」のとこだけピックアップされていて、そういう子供たちが危ない!!みたいな議論になっちゃってたけど、そういう記事じゃないのね。
ただ、私にも気になるとこはある。
石井さんの時代も、私の時代も、今の小学生の時代と本気で違うのだ。
当時の常識は今の常識ではない場合も、想像以上に多いのだと思う。
私たちにとって、昭和の頃の「ちょっと昔を舞台にした話」には、大人が子供だった頃の日本の延長として、生きている文化がまだたくさんあった。
だけど、それが途切れた後に生まれた人たちにとっては、それはSFぐらい、自分の中に本気で無いのだ。
それが、ほんの1年前に廃れたものだったとしても、生まれる前のものはみんなそうだ。
「葬式だから参列者に出すための料理を作ってる」のが、「今の常識」のはずないと思う。
ここに突っ込むべきものがあるとすれば、必要なのは「常識に欠ける」と断罪する事ではなく「今はもう常識ではないらしい」と考察する事だと思う。
「お母さんを消毒している」「煮て溶かしている」という意見が大真面目に、しかも一人や二人ではなく出てくるのだという。
それを突飛だ、想像力が抜け落ちてると言われると、それもなんだか切ない。
(煮る時に「ぐずぐず」っていう擬音語、なんか不穏なイメージを与えません・・?)
何も知らない彼らが、「昔って、そういうこともあったのかなあ」と、彼らなりに頑張って想像した結果なのかもしれないからだ。
そもそも何でそんな事を聞くのか・・聞かれたら、何か特別な意味があるのかと思って人間って深読みするものだしね。
確かに、私だってその発想は無い。聞けばびっくりするよ。
だけど期待した答えじゃないものが返ってきた時、その発想の背景を決めつけるのもまた、想像力の欠如ではないのか。
(まあ、石井さんはちゃんと聞いて分かってるかもですけれどね。書いてないだけでね)
常識もどんどん変わっている。
心情を慮ってやれない人々が増えている・・というのは、私もちょっとは実感あるけど、現代の新しい心情もある。だったら今は今でやってく、現代の国語力が必要って事なんでしょうか。
なんてこれも、言うのは簡単ですけどね。難しい話なんだろうね・・